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ガールズ&バイクスⅡ
girls & bikes

04 自転車のホントの美しさ

タクヤ(メッセンジャー&自転車屋)

サンフランシスコのミッションエリアを南北に走るヴァレンシア通り。 15thストリートとの交差点近くにあるフォーバレルという焙煎所も備えたカフェは、歩道にカウンター型のテラスがあり、鉄の棒を溶接して作ったゲートのような駐輪場が置かれている(写真)。 朝8時過ぎの通勤時間にここに座ってコーヒーを飲みながら通りを眺めていた。

ヴァレンシア通りには自転車レーンがあり、ここ5年は自転車で通勤する人の数も増えた。 信号のタイミングごとに集団ができて固まって走り、ちょっとしたラッシュアワーだ。

カフェに立ち寄るサイクリストたちが、通行帯に面した駐輪場にサッと自転車を停めては出ていく。 結構な速度で走る集団から外れて自転車を停めては、しばらくするとコーヒーのサーモを持ってまた別の集団に追いついて走っていく。 アメリカらしい大雑把な秩序があり、それを守らない人や流れを乱す人もいるけれど、有機的に群れは幅を狭めたり広げたりしながら流れは滞らない。

美しいと思った。 一人ひとりは自由だけれど、バッサリとした秩序が成り立っている。 マナーが悪い人も混ざりながらも全体としてスムースに機能している。 どこかの国なら「マナーとモラルを守らなきゃ!」なんて汲々とするか、そうでなければ基本のルールも知らず危険な運転をするか。 その結果「自転車はマナーを守りましょう!」なんて立て看板やポスターを無秩序に乱立させてしまうだろう。

街の景色を美しい状態にしたければ、手近なところから美しくすればよい。 ツバメ号がその役に立てばうれしい。 自分が美しいと思うサイクリストには自尊心が生まれるから、自然と乗り方も美しくなるはずだ。 美しくありたいと思う人が増えれば日本の自転車が走る風景が少しは変わるかも知れない。

とは言うものの、何かの役に立つために、例えば交通マナーが良くなるために、美しさが存在するわけではない。 為する美なんて安っぽい。 ときどき美術の仕事をするからか、こういう質問をたまにされる。 「美って何かの役に立つんですか?」。 答えは「美なんて何の役にも立ちません」。 僕自身が、部屋が散らかっていようが、無精髭にジャージで外出しようが全然平気という、美どころか清潔さすらクリアできないだらしない人間で、だから美なんて無くてもちっとも困らない。

ただ、美しさは役に立たなくても美しいだけで意味がある。 例えば、おいしい物を食べるのに何の意味がありますか?と聞かれたら、「栄養がある」「元気になる」なんて答えもあるだろうが、「おいしいものを食べるのは、それがおいしいから」としか言いようがない。 エサとビタミン剤でも人間は生きていける。 それにも関わらず、みんなおいしい物を食べたがる。美も同じことですね。

まして女性の多くは美を求めているように思える。 なぜそれが自転車には及ばないのか? 一つには自転車が、歩道をノロノロ走る道具になってしまったこと。 走る気持ちよさを求めないから、生活感と便利さ以外の何も感じさせないママチャリがはびこることになった。 それに美しさを求めるのは無理だ。

一方でスポーツ車には美しさの基準があるが、マニアは自転車しか見ていない。

自転車とは人間がまたがって初めて完成する乗り物だ。 自転車と人がチグハグでは美しいとは言えない。 ハンガーにかかったコートがどれだけキレイでも、着る人や着こなし方で美しさは変わる。 ましてダボダボではカッコ悪いだけ。 自転車だって同じでサイズの合うものを自分なりに乗りこなしてこそ美しい。

こんなことを考えて、「アナタを美しく見せる自転車」を作った。 アナタの体格に合わせやすく、上品かつスポーティーで無理のない乗り方ができる自転車。 「美しい自転車」とは言葉は似ているけど目指すところが違う。 ママチャリの部品も使ってしまったし、決して高級品でもない。 だからツバメ号が美しいかどうかはアナタ次第だ。

さて、たまに聞かれる質問がもう一つある。 「美しさって、どうすれば解るようになりますか?」。 これには残念ながら答えることができない。 自分で感じ方を見つけてもらうしかない。 独りよがりにならず、本当の美しさを見つけるのは簡単ではない。 だけど誰にでも出来る。 ツバメ号は「アナタが自分を美しいと思えるようにする自転車」でもある。 どうかお役に立てますように。

(本紙掲載 2012年3月13日)