表紙コラム

Autumn2024

no.63

WEB掲載日

2025年2月19日

哲学する町医者と自転車 『スピノザの診察室』

『スピノザの診察室』
夏川草介著/1,870円(水鈴社) spinoza-clinic.jp
病気で最愛の妹を亡くした主人公・雄町哲郎が、京都の病院で終末期医療を受ける患者に寄り添い、「人の幸せ」を哲学する。スピノザは17世紀オランダの哲学者。
アムステルダムにはサイクリングしながら哲学できる「スピノザ・ルート」が。

ゆであがりそうな酷暑の日、涼みに入った書店で手に取ったのが、この『スピノザの診察室』。街角で風に揺れる柳と、石橋を渡るママチャリが描かれた装画を見て、「京都だ!」と直感した。

本書は、京都の町中にある地域病院を舞台に、盛夏から初秋までのできごとを綴った長編小説で、主人公は自転車で往診する内科医・雄町哲郎。通称“マチ先生”。彼は大の甘党で、好物は「北野の長五郎餅」だ。

マチ先生が勤める病院の医師駐車場にはアストンマーチン、アルファロメオといったきらびやかな外車に続いて、彼の目立たないママチャリが並ぶ。看護師に「いい加減、車買ったらどうですか?」と言われても彼は、「なぜ?」と首を傾げ、「道が狭く、交通量も多い京都の町中を動くのに、自転車ほど便利なものはない」と返す。

ただ、物語を読み進めるうちに、マチ先生は自転車のもつ利便性だけに惹かれているのではない、とわかる。

一つは、その速度。医療の現場というと、最先端の技術を用いて最速の治療を行うシーンを想像しがちだが、それは“スポーツカー”の世界。ママチャリに乗るマチ先生は自宅で最期の時間をすごす患者に寄り添い、一人ひとりの顔が見える終末期医療を行う。

彼にとって自転車は、患者たちの日常にそっと寄り添うのにちょうど良い速度なのだろう。死の淵に近づきつつある患者に、がんばれとも、諦めるなとも言わず、「急がなくて良いですよ」と声をかけるシーンは自転車的だ。

もう一つは、その静けさ。往診に季節は関係なく、物語で描かれる夏の暑さは相当なもの。一日に数軒回ることもあり、診察後に往診鞄をカゴに押し込み、自転車をゆっくりこぎ出すと、風を切る静けさの中で彼の思考のスイッチが切り替わる。病院や訪問先から一歩外に出れば、病も命も意識しない生活がそこにある。

「世界にはどうにもならないことが山のようにあふれているけれど、それでもできることはある」。そう淡々と語り、常に前へ進もうとするマチ先生の哲学を支えるのは、一人でペダルをこぐ静かな思考の時間なのだ。

物語を彩る京銘菓のシーンも楽しく、夏を乗り切ったいまこそ染みる一冊。マチ先生好みの餅菓子とともに。

text by 杉谷紗香(cycle編集部)
紙面掲載日:2024年10月31日
※記事の内容は紙面掲載時点の情報です
関連記事